2016年8月5日金曜日

福岡伸一の動的平衡:31 遺伝子の束縛から脱する価値(6/30朝日新聞)

 英国がEUから離脱する。政治や経済に疎い生物学者が言いうることはささやかなことでしかない。ヒトは、長い進化の末に唯一、遺伝子の呪縛から脱することの出来た生物である。
 遺伝子の呪縛とは何か。それは、争え、奪え、縄張りを作れ、そして自分だけが増えよ、という利己的な命令である。これに対して、争うのではなく協力し、奪うのではなく分け与え、縄張りをなくして交流し、自分の利益を超えて共生すること、つまり遺伝子の束縛からの自由にこそ、新しい価値を見出した初めての生命体がヒトなのである。言葉をかえていえば、種に奉仕するよりも、個と個を尊重する生命観。
 国境という人工の線をなくし、人々の往来と交流を促進し、共存を目指したのがEUの理念であったのなら、それは遺伝子の束縛から一歩を踏み出した生命観にかなっていた。今回それがいささか逆行したかのように見えるのは残念なことだ。でも私はそれほど心配しない。押せば押し返し、沈めようとすれば浮かび上がる。そうして本来のバランスを求めるのが生命の動的平衡だから。
 ヒトが遺伝子を発見し、そこから脱することの価値に気づいたのも、そもそも遺伝子のなせるわざだとするのなら、遺伝子はもともとこう言っているかもしれない。生命よ、自由であれと。

8月5日TBS「たまむすび」ゲスト出演にて紹介。
福岡先生は科学を文学的に表現するところがすばらしい。
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遺伝子は楽譜のようなもの。メロディは決められているがどのように演奏するかは自由。
生まれてきたことが大事だと気づいて遺伝子から自由になったのがヒト。人は遺伝子を超えて自由を得たのだ。大事なのは氏より育ちである。