岡田斗司夫 著
■ サブカルチャーとオタク文化
●ゲームはアートではない
以前、フランスの版画家集団アトリエ・アルマーのアーティストたちと話したことがある。彼女たちはフランス政府から援助を受けながらアーティストとして活動していた。アトリエはナポレオン時代に要塞だった建物を改造したもの、日本の美術展への出展も政府後援だった。いわゆる、「ちゃんとしたアーティスト」なわけだ。そんな彼女たちに僕は、「マリオやソニックなどのコンピューターゲームを、アートとしてどんなふうに評価しているか?」と聞いた。
コンピュータゲームは新しいメディアだ。だから、アートとしては全く評価はされていない。通産省なんかは「これは外貨を稼げる!」と思って注目しているようだが、文化庁なんかは無視の構えだ。上野の国立美術館で『ゲーム展』をやるのはまだまだ先のことだろう。
しかし同じクリエイターとして、現場に立っている者の感覚は違うのではないか。僕はそう考えたわけだ。彼女らにしてみても、この全く新しい形の「アート」に注目しているに違いない。だからマリオをどう思っているのか、アーティストとして、ライバルとしての言葉を聞きたかったのだ。
ところが、アトリエ・アルマーのリーダー・ローレンスはこの問いを一笑に付した。
「ゲームはアートじゃない。うちの子もゲームが好きで、放っておくとゲームばかりやりたがる。だからゲームは日曜日に1時間だけと決めている。日曜日は家族で子供を美術館や博物館に連れていって、アートとは何かをちゃんと教えている」
僕は「これだから教養のない人は」という目で見られてしまった。彼女たちにしてみれば「アート」とは教養として学ぶべきものなのだ。けっして子供たちが自分から自然に飛びつくような「面白い」ものではない。その「面白さ」と、いわゆるアカデミックな世界の「アート」とは何の関係もない。本来、関係がないからこそ、「アートは教養として学ばないと身に付かない」ものなのだ。
誤解しないで欲しいが、僕は彼女たちを「頭が古い」と責めているのではない。これ程までに「価値観が違う」事に驚いただけだ。彼女たちの考える正統派文化では、アートとは「教養」であり、大人の文化である。そして「子供が喜ぶ文化」というのは、その本格的・正統派文化と敵対する「何か別の文化」らしい、ということだ。
●メインカルチャーの教育観
彼女たちが子供に教えようとしている「本格的・正統的文化」とは、メインカルチャーと呼ばれているものだ。メインカルチャーとはおおざっぱに言うと、アート、文学、科学、歴史、クラシック音楽といったアカデミカルかつクラシカルなもの。もっと平たく言うと大学で昔から研究してきたようなもののことである。
彼女たちが所属しているヨーロッパ文化圏では、メインカルチャーを身につけるのが当たり前である。それも出来ない人は「クラスが低い」とされてしまう。いまだ階級社会の色合いを強く残しているヨーロッパでは、「メインカルチャーを身につけず、自ら階級を下げる」なんてことは半分自殺行為のようなものなのだ。
で、そんな社会でも「子供のための文化」は存在する。ただし、これは「子供が楽しむため」のものではなく、「子供をちゃんとした大人に教育するため」の文化だ。「ちゃんとした大人」とは、「自我が確立した市民」という意味。わかりにくければ、メアリーポピンズやピーターパンに出てくる父親のように、銀行員や実業家、役人と言った「立派な人たち=階級社会の市民」と考えてもらっていい。
アカデミックな教養があって、社会的信用も高い立派な大人。子供はみんなこういう立派な大人・市民になるべきだ、というのがメインカルチャーな考え方だ。そのための教育を目的として与えられるのが子供文化だ。現在、日本でも若いおかあさん達に人気の高いヨーロッパの知育玩具といったものは、みんなそのポリシーで作られている。レゴやパズルなど、日本でもメジャーなハイソ玩具はもともとすべてそういう目的で作られたものなのだ。
この子供文化に対する考え方は、一見当たり前のように聞こえるが、実は日本人の考え方と全然違う。ヨーロッパでは、子供にそういった安全で教育的なもの「しか」与えないのだ。テレビ番組を自分で選ばせるとか、テレビゲームを次々と買い与える、といったことは一切ないのが本来のメインカルチャーな考え方なのだ。「子供文化」とは子供達が作る文化ではなく、「大人が与えるべき文化」でしかありえない。
そういった価値観からとらえると、日本のアニメはもちろん子供の教育のための文化に入るわけはない。教育的な要素がないどころか、人を殴ったり下品だったりで反教育的な要素がたっぷり含まれている。それを見続けることによってアートや音楽に関しての見識も深まったりしない。合格ラインの作品などゼロだ。
こういったものを子供に与えるなんて考えられないというのがヨーロッパのメインカルチャーの方々の考え方だ。こういった人たちにとって、日本アニメは「サブカルチャー」に見える。大人に反抗する文化「カウンターカルチャー」、立派な大人になりきれないオチこぼれの若者が作る文化、サブカルチャー。
だから、ちゃんとした大人と自分をとらえている人たちは日本アニメを相手にしない。子供達をちゃんとしたメインカルチャーに導いてあげるのが、大人の義務と責任なのだから。
●子供とはカオスである
何故、そこまでメインカルチャーは抑圧の力が大きいのか? 少し説明してみよう。
メインカルチャーのルーツは、キリスト教とギリシャ哲学だ。
まずギリシャ哲学の頃からの伝統的考え方として「世の中のすべてには理由がある。物事はすべて論理的に記述可能で、人間が努力して賢くなればあらゆる事は解明できる」という思想がある。
その考え方をキリスト教が少しアレンジする。世の中には、はっきりとした秩序(コスモス)の部分と、はっきりしない無秩序(カオス)の部分がある。コスモスが神の世界、カオスが悪魔の世界だ。
この世界観をよく表すエピソードとして、教会の鐘の音、というのがある。中世の城塞都市には、必ず町のど真ん中に教会がある。これは、教会の鐘の音の聞こえる範囲が教会の安全保障ラインだ、という考え方から来ている。つまり、鐘の聞こえる範囲はコスモスで神の世界、聞こえない森の中はカオスで悪魔の世界、ということなのだ。森の中のことに神様は責任を持ってくれない。
実際、中世ヨーロッパの都市は鬱蒼とした森の中にぽつんと穴があいたように、そこだけ切り開いて町を作っている。一歩町から外へ出ると悪魔の世界という考え方も自然なことかもしれない。『ドラクエ』で町を離れるとモンスター達が徘徊する平原というのも、実はこういった考え方がもとになっているのだ。
こういう中世の世界観の中で科学は生まれた。
もともと科学は森とか海とか植物とか、そういった魔の世界を研究してその中に秩序を見つけ出してコスモスにする、という行為だったのだ。科学は「魔の世界」に光を当てて、「神の世界」に取り戻す、という宗教的戦いだった、とも言える。
こうやって生まれた科学を中心とするメインカルチャーは秩序だっていること、論理だっていることがもっとも大切とされる。
それに対し、自分の感情のまま振る舞う子供は、存在自体カオスであって、良くない状態なのだ。早くコスモスな大人に成長するべき存在と考える。
イギリスでは子供を他人である乳母に預け、しつけさせるのも子供の無秩序な行動は「悪」と考えるメインカルチャー的価値観から来るものだ。
さて、乳母を雇って子供をしつけさせる、なんていうのはある程度お金持ちじゃないと出来ない。メインカルチャーとは、そういった人たちを対象とし、そういった人たちに支えられた文化だ。言い換えれば「メインカルチャーを身につけているものは、育ちが確かなちゃんとした人」ということになる。つまり、この文化を理解している、ということが「階級」の証となるのだ。
しかし産業革命あたりからヨーロッパは「富の獲得」に邁進した。ヨーロッパの人全部が「階級」みたいなものを手に入れちゃったのだ。これを「貴族文化の大衆化」とか「市民文化の確立」と呼ぶ。
当然、子供達は全て「立派な大人になるための、大人が作った子供文化」を押しつけられることになった。このものすごい抑圧の「子供はこういうのを見てればいい」とか「こんな大人にならなきゃダメ」という中から、「反抗の文化」が生まれてくる。
●カウンターカルチャーからサブカルチャーへの変貌
「そんな階級社会文化・メインカルチャーなんかいやだー」という反抗のパワーの源は抑圧の力だ。抑圧の力が大きければ大きいほど、反抗という反作用も大きくなる。こうして生まれてくるのが「カウンターカルチャー」なのだ。
「『立派な市民』なんていっても、あんたら戦争ばっかしてるじゃないか。オレ達、そんな『立派な市民』なんかになんねーよ!階級社会?クソくらえ!メインカルチャー?クソくらえ!」
これがカウンターカルチャーの基本理念だ。だからロック・スターが打ち合わせの時間に遅刻してくるのはスタイル上の問題ではなく、思想上の問題である。「時間を守る?そんなコスモスな発想に付き合ってられるか!オレ達はもっとカオスなんだぜ」
これが「カウンターカルチャー」の本質なのだ。さて、これが新大陸・アメリカという「あんまり階級社会じゃないところ」へ渡っていった。ところがカウンターカルチャーのエネルギー源は「階級社会の抑圧に対する反抗」だ。見回しても、ヨーロッパほど強烈な階級社会なんてない。オレ達は何に「反抗」したらいいんだ?
ここでカウンターカルチャーは徐々に「サブカルチャー」に変貌した。
「サブカルチャー」という言葉は「何だかよくわからんけど、若者文化のことだろ」ぐらいに認識されている。その認識は正しい。
アメリカの若者達には「反抗すべき階級」がなかった。階級がないから反抗の理由もない。そこで彼らは「大人になること」そのものに反抗することにしたのだ。
「若いってことは、それだけで正しいんだ!大人ってことは、それだけで間違ってるんだ!」
同時に、サブカルチャーがアメリカで生まれた理由として「西海岸の消費者文化」である、という側面も無視できない。東部エスタブリッシュメントたちのピューリタニズム(清貧思想含む)に対するアンチテーゼとして、サブカルチャーは大量消費を翼賛する文化になったのだ。
この2つがサブカルチャーの基本理念だ。だからサブカルチャーは常にその時代の消費者である若者・子供達の顔色を窺う。メインカルチャーでは「カオス」として否定されているようなものを評価し、カオスの代表選手である「子供」のセンスが前面に押し出されているのだ。だからキース・ヘリングの落書きがアートとして評価される、というのは「サブカルチャーがメインカルチャーに勝利した」という意味を持つのである。
●ちょっと、復習
少しまとめてみよう。もともとは一部貴族や裕福階級のものであった「文化」。しかし農奴達が「市民」となることによって、そんな貴族文化も大衆に開放される。そして優良(階級)市民の証は、大衆化された貴族文化・「メインカルチャー」を身につけているかどうかで決まる。
しかしそんな階級社会に異を唱える者達は、メインカルチャーに対抗する「カウンターカルチャー」を育て上げる。それは相次ぐ大戦への批判とともに瞬く間に世界へ拡がるが、階級社会的締め付けの薄い場所では「反抗すべき階級」が見あたらなく、変質を余儀なくされる。「じゃ、オトナに対する反抗ってことでいこう!若者万歳!消費者万歳!」、これが「サブカルチャー」である。
これが20世紀末の西洋文化・基本マップだ。
●ファッションとしての日本サブカルチャー
太平洋戦争の敗北後、日本は西洋的思想・文化を躍起になって輸入した。これまでの日本的思想・文化はすべてマチガイで、だから太平洋戦争なんてマチガったことをしでかして、オマケにボロ負けしてしまった。これが当時の日本人の考えだった。
実は、明治維新の時に何も考えずにとにかく西洋思想・文化を輸入し、富国強兵政策を採ったのが軍国主義への道であった、という単純な事実はあまり思い出されなかった。「アメリカ的、かっこいい!日本的、かっこわるい!」この文化的ヒステリー運動は、この国を「文化的植民地」に仕立て上げた。
それから五十余年。日本の経済は復興し、「第2次大戦勝ち組」諸国を凌駕しているのが現状だ。しかしこの国の文化はいまだ「アメリカ的、かっこいい!」という植民地的発想から抜け出してはいない。それどころか「日本発のサブカルチャーにも世界で通用するものがあるんだ!」なんていう世迷い言をまき散らしながら、日本での成功をバックに欧米でデビュー(=失敗)するミュージシャンは後を絶たない。
日本のファッションやサブカルチャーはモノマネの域を出ない。モノマネなのも当然で、日本では大人に対する反抗なんていう思想は本来備わっていない。だから、上辺を真似るしかない。日本製サブカルチャーのかっこわるさは、「思想なきファッションのかっこわるさ」なのだ。ゴキゲンでマルコムXの帽子かぶってて、黒人のあんちゃんに「お前、わかってんのかよ!」と問いつめられるかっこわるさなのだ。
だからサブカルチャー方面では日本は世界に全く評価されていない。求められてもいない。今この瞬間、日本という国がなくなっても、文化的な意味において世界は全く困らないのだ。
その唯一の例外が「オタク文化」である。アニメ、コンピューターゲーム、マンガといったオタク文化は世界中の人々に求められている。
はっきりさせておこう。オタク文化はサブカルチャーではない。「貴族文化(メインカルチャー)・カウンターカルチャー・サブカルチャー」とは全く違った文脈で進化したものだからだ。では、オタク文化は何から進化したものなのか?それを考えるために、再び「子供というものの捉え方」から始めてみる。
●子供に寛大な日本文化
日本文化で「子供」は決していけない存在ではない。むしろ、子供のままでいることは純真な心を失わないすばらしいことと考えられる。子供と遊ぶ良寛さんのような人物が聖人とされたりする。日本文化において、子供は未完成の大人ではなく、根源的な人間像としてとらえられるのだ。
また伝統文化も子供に寛大だ。歌舞伎や能の世界でも、3歳の子供が舞台に立つことは往々にある。もちろん芸としてはまだまだ未完成で無秩序な状態だ。しかし歌舞伎や狂言の観客はそれを許し、楽しんでしまう。西洋文化の頂点・バレエなどでは子供が舞台に立つなど考えられない事態だ。
そのかわり歌舞伎では、3歳の子供も役者として厳しく対等に扱う。子供だからという言い訳はない。そこには歌舞伎の世界での師匠と弟子という差はあっても、子供と大人という差は存在しない。子供から大人へ、もっとナチュラルに捉えられているのだ。
子供はコスモスの世界を揺るがすカオスではない。同じく町外れの森も、決して「悪魔の領地」ではない。森も、子供も、それら全ては「あるがままの自然に近い状態」として肯定的に捉えられているのだ。
こんな社会では「大人社会に対する反抗」という文化は生まれない。村と森の境目が曖昧なように、大人と子供の境目すら曖昧なのだから。
日本でも「貴族文化」というのはあった。しかしそれは応仁の乱あたりから京都という「実質上の遷都跡地の僻地」に放置され、人々はそんなものとは無関係に高度消費文化を花開かせたのだ。
●オタク文化の自由さ
その日本型文化の源流がオタク文化の中には流れている。
だから日本の「子供向け文化」では、子供を一人の人間としてとらえ、一人前のものを与える。もちろん年齢によってできないこと、わからないことも多々ある。それでも最初からわからないと決めつけたりはしない。3歳の子供に舞台に立たせるように、大人の欲望や葛藤を躊躇なく入れる。
たとえば子供向けのアニメの中に、人間の心の闇や葛藤を描いたりする。アニメ版『アルプスの少女ハイジ』では、気難しいアルムお爺の孤独感が、原作よりもウェイトが置かれ描写される。
ロボットアニメの中に未来戦争に苦悩するロボット乗りたちの心を描いたりする。資本主義社会の中で翻弄される人間像をクレヨンしんちゃんの中で描いたりする。もちろん、そんな難しいことがわからない幼い子供達にも楽しいように形を整え、その上で本質的なテーマを入れるのだ。
見ている子供達みんながわからなくてもいい。でも、12歳でも頭のいい子ならわかるかもしれない。18歳でもバカにはわからないだろう。できれば20代、30代の賢い大人をおおっと言わせたい。
オタク文化は、そういった世界でも類を見ない特殊な「子供文化」から派生・進化して出てきたものだ。そんな世界観で作られるオタク作品は、子供文化の形を借りた総合芸術なのだ。
ハリウッド映画が世界を席巻した理由は、多民族国家アメリカのあらゆる民族、あらゆる階層の人々にわかるように、という枠があったからだ。そのために間口の広い、しかも奥行きの深い作品が数多く作られた。日本のオタク文化も、子供向けで誰もが楽しいという間口の広さと、そこに深いテーマやドラマを入れるという奥行きの深さで世界を席巻し始めている。
このように日本文化には2つの特徴がある。一つは江戸時代に成立した消費者文化。もう一つは「子供向け」の文化。
●オタク文化=職人文化
僕はオタク文化というのは「江戸時代の消費者文化」である職人文化の正統00な後継者ではないかと考えている。つまりオタク的な楽しみとは、職人の芸を観賞するというスタンスの楽しみ方ではないだろうか。職人の匠の技を愛でたり、由来を確かめたり、粋を観賞したりする。その中で2章で説明した「世界」と「趣向」という決まりに則った作品観賞、見立てという抽象化という、日本の古典文化と同じ方向へ進化していったのだ。
ではその「職人文化」というものを探ってみよう。
どんなにいいキセルも、見方のわからない人にはただのキセルでしかない。せいぜい変わった柄とか、売値が高い、とかいうのがわかる程度だ。
こういう人は野暮(やぼ)と呼ばれて嫌われる。
これに対して、わかる人はこのキセルからいくつもの発見をする。たとえば「キセルの材質が錫と違って銀だ、これは色味はいいのだが細工しにくいため敬遠されがちな材質じゃないか。なかなかの腕の技と見た!」とか「この模様はよく見たら千鳥じゃないか。なるほど、タバコの煙を州浜に見立てて、その上で千鳥とは粋だ」とかの、作者側の暗号を判ってくれる客を「粋」と呼ぶ。
作る方も粋な人ならわかってくれるだろう、と考えて作る、見る方もそれに応える。逆に作る側が手を抜けば見る側から厳しい批判が返ってくる。
前の章で説明した日本庭園も同じだ。この庭は、あの歌で詠まれた粟津晴嵐(あわづのせいらん)の情景を作ってあるのだな、と見る側も心得ていなければ仕方がない。こういう作り手と受け手のキャッチボールのような関係が日本文化の特徴だ。
日本文化では、粋を理解する客がいなければ文化は成立しえない。現在、落語が滅びてしまったのも、落語の世界の約束事を理解する客が減ってしまったためだと言える。
どんなに世界を守って趣向を凝らしても、そこのところをわかってもらえなければ仕方がない。どう趣向を凝らせばおもしろいのかわからなくなってしまう。仕方なく、趣向なしでいつも同じ演出になっていく。そのため、ますますお客が減っていく、という悪循環が起きているのだ。
この送り手と受け手の関係は、オタク文化とまったく共通のものだ。「魔法陣グルグル」を見て「ふんふん、RPGのパロディアニメなのね、けっこうセンスいいなあ」とわかってあげるのとまったく同じ構造だ。
西洋のアートならクリエイターは神様だ。アーティストは、受け手の意見など聞かないし、聞く必要もない。逆に受け手の意見なんか聞いたりしたら、大衆におもねった偽物とされてしまう。
その点、日本文化の場合、作り手と受け手の間で切磋琢磨して文化は進化する。では、作り手と受け手は対等なのかというとそうではない。実は、「作品の良さを理解して言葉にできる」という「受け手」の方が日本文化では偉い、とされているのだ。
たとえば、茶道でも茶器の目利きという仕事があった。実際に粘土をこねたり、窯に火を入れたりする職人よりも、彼らはずっと尊敬されていた。
千利休だって茶碗ひとつ焼けないただの人だが、彼がこれは、と認めればその茶碗は稀代の名器としてありがたがられた。千利休が偉かったから皆が鵜呑みにしたのではない。彼の語る言葉によって、その茶碗から確かに美が引き出せたからだ。
つまり、彼が茶碗の由来を語り、巧みな技をほめ、縁の欠けたさまに感動するしぐさを見て、それまではただのモノであった茶碗は芸術作品に昇格するのだ。
その構造が如実にわかる話として「はてなの茶碗」という落語がある。ただの薄汚い、おまけに水が漏れる茶碗を、茶屋金兵衛が「はてなの茶碗」と名付ける。どこからともなく漏れる水がおもしろい、趣があるというのだ。新しい評価を受けたその茶碗は、いきなりもてはやされ、九条関白、時の帝にまでお墨付きをいただいて、とうとう千両の値がついてしまう。
茶碗が変わったのではない。水が漏ることを価値としてみるという新しい視点が示されたのだ。その視点の変化のおもしろさが千両に値したという事だ。