2011年5月29日日曜日

悪人

李相日監督 2010年
妻夫木聡/深津絵里/樹木希林/柄本明

みんなぶきっちょ。

2011年5月28日土曜日

五十嵐淳展 状態の構築

建築模型を覗くのは楽しい。
頭の中でいろんなイメージがぐるぐるし始める。妄想?自分で作ったLEGOの家でも妄想したなぁ。
撮影できるのも楽しい。展覧会に参加できるから。
ギャラリー間

あるべきようわ 三嶋りつ惠展

ボリュームのある無色のガラス作品群。
ムラノ島で製作しているとのこと。カラフルなガラス作品が多い島では異色なのでは?
ソットサス作品のユーモアに通じるものを感じる。あっちは色が豊かですが。
「透明ガラスはこうやって見せるといいよ。真っ白な光を透過させて透明感と質感をつくる。表面は周りを映り込ませて表情をつくるんだ」というお手本のような展示。スポットで照らすようなことはしない。
ん?『あるべきようわ』て何?

会場構成:青木淳 @資生堂ギャラリー

『阿留辺畿夜宇和』
明恵上人の教え。「あるがままに」というのでもなく、また「あるべきように」でもない。時により事により、その時その場において「あるべきようは何か」と問いかけ、その答えを生きようとするもの。

大森 玉子付

ちょいと小腹へり用。
くせになりそうなスパイス。
銀座ニューキャッスル
-menu-
品川・大井・大森 玉子付・蒲田 玉子付
大森がレギュラーサイズ。大井は少ない。メニューの注釈によると胃薬付の川崎もあったらしい。

2011年5月25日水曜日

裏表参道

lucien pellat-finet
ルシアン・ペラフィネ
お店、どなたのデザインかしら。
クール。

2011年5月23日月曜日

牛スジカレー

ブラウニー@末広町
おやじさん、ぶっきらぼうな風貌に似あわないテノールのいい声。
段取り、鍋振る手際がいい。牛すじトロトロ。
きのうFBで流れてきて、どうしても食べたくて同僚まきこんで食べにいく。

2011年5月22日日曜日

TEDxTokyo - 石井 裕教授 - The Last Farewell


冴えわたる石井節。教授は日本語でも英語でも同じテンション、テンポ。
コンサートを見たような感覚を覚える。あるいはスタンダップコメディかも。


SmileExperienceDesign 2011 Hiroshi ISHII 石井裕が未来を語る Ustream

2011年5月21日土曜日

タイヨウのした

 http://www.taiyounoshita.jp/ 
オープニングレセプション。
 らしい誠実で気持のいいお店。抜ける風が爽やか。
お店で  に会う。ビール。「オレも本気見たい」
帰り道、迷える子羊?   と  を見つけ、
救世主としてゆくべき道を指し示す。
「この道を行きなさい」

国立西洋美術館

打ちっ放しがとても美しい。(巨匠に対して失礼な)
あちこちにある片側手すりの幅の狭い階段が印象的。
レンブラント・・・とても多作な人なんだ。
「光の魔術師」絵画の人だと思っていた。
版画が多い。今見る挿絵版画はこの人が起源?と思える簡素化簡略化したエッチングの入れ方。和紙を好んでいたようでなんか親近感。

2011年5月20日金曜日

シンガポールビーフン

一片雲@ 湯島
ビーフンなんてひさしぶり。うまいうまい。野菜がうまい。あいかわらずボリューミー。

湯島天神

破風がりっぱ。東照宮ばりに彫り物が多い。
修学旅行らしき中学生がたくさん。

2011年5月19日木曜日

電力会社について

 が1週間前に連投したつぶやき。
なるほど。電力のローカライゼーション。支持できる将来像。
電力は装置産業だけど、放送がITによって装置産業でなくなりつつあるように小規模で成立できる可能性もある。発電・送電分離ができれば加速するだろうし。
風力、太陽光、地熱、潮力・・・地域性や特色をもった電力メーカーが生まれ多様性をもてるとよい。
福岡ハカセの動的平衡「線形性から非線形への回帰」パラダイムシフトに通じる。
消費者と生産者がお互いを思いやれる関係ってのは魅力ですよね。

さて、電気屋の話だけど、大企業、旧体制の解体、自由化というのは、僕には抵抗がある。これまでの様々な「自由化」は、ある程度の資本力のあるフランチャイズとかに乗っ取られ、地域の多様性や結びつきは競争の名のもと淘汰されたわけだし、簡単に言っちゃダメなんじゃないかな。

「自由化」「競争」が、フェアだって、かっこいいって、実は僕はそうは思ってない。自由化というのは、必ず「競争」を生むから、その中で「電気代」が、最優先されるのは目に見えてる。競争は、弱者を生むよ。

話はずれるようだけど、「町の工務店」が、心無いハウスメーカーの下請けになり、粗悪な材料と職人不要の工法の中におとしめられていく。僕はそれをみてきたから。

「町の」商店街だって、おんなじだって、思った。「町の」分だけつくっておけばよかった豆腐屋は、オカラを産業廃棄物とよぶトウフファクトリィには、価格でかなう訳ないよ。でもそれが自由化で競争。

電気は自由とか、競争とか、しちゃいけないんじゃないかと思うんです。どうやってやるかは想像もできないけど、「安くする」ための皺寄せは必ず上層の給料ではなく、賃金や原材料費や粗悪化にくるから。

ただ、前にも言ったけど、現在の電力会社や、発電所の数と、それがカバーする地域範囲は、僕も明らかに違和感がある。もっと小さな発電所で、もっと小さな地域をカバーする方法論は、あるはずだと思うんです。

例えばヤクルトの営業所とか、子どもの頃に比べたら、すっごい少なくなったよね。それって、ヤクルトレディが自転車でなくバイクに乗るようになったからだと僕は思ってる。交番が減ったのも効率化。でも「効率化」は、地域との結びつきを確実に希薄にしていった。

ちなみに僕は今のように、「電力会社」から一足飛びに、「自家発電」になることに違和感を感じないこともなんか気持ち悪い。そこでもコミュニティという概念を壊した「自由」と「競争」が、顔を出す。

他人の集まりであるトウキョウの価値観はそれでいい。でも、まだカゾクのいっこ上の集まり「シュウラク」が残ってる地方にはもう少し他の考え方があるんじゃないかな。

「値段で比べたりなんかしないよ、ウチは代々山田サンところで醤油買ってんだよ」っていうような、カネを越えた結びつき。電気だって、本当は一緒じゃないかと思うんです。だからもう少し小さい単位での、発電と送電を考えていくことは出来ないんだろうか。「競争」ではなく、「繋がり」で。

今の電気屋みたいに大きくてよく解んない怪物は「セイジ」や「コッカ」や「ガッコウ」と同じで、いくらでも批判出来る。でも、もっと小さな単位の、自分に近い存在だったなら、「一緒に考える」「一緒に堪える」って、出来そうな気がするんだよね。


2011年5月13日金曜日

梅田貨物駅の夕暮れ

プラレールみたい。
プラレールって誰でも都市計画者や鉄道管理者にしてしまう。
現実のプロデューサーの方々もプラレールやトミカ、レゴで修行したんすかね。そう思いたい。純粋な原点だと思うから。
JR大阪三越伊勢丹より

2011年5月10日火曜日

UNIQLO POP UP STORE 池袋駅店

知らなんだ。4月21日からやってるらしい。
6月28日まで。11:00〜21:30 駅コンコースで営業。
毎日、昼前にお店作って夜かたづけてるという。店員男子談。
ふだん通過する時は床しかない。
でかいフロア広告だなぁと思ってた。
”店=たな=棚”ってのがよくわかる。
ユニクロポップアップストア


2011年5月6日金曜日

Glyph柳本浩市“自炊展”

ひぇ~ お願い。自炊したのYouTubeしてください。 
RT @ ええ〜ww 
RT @ あのファイルまだ300冊以上ありますww 
RT @ 自炊展に行ったら、@ に会う。しばし二人でファイル拝見。包装紙ファイル圧巻。映画を何本か見た感じ

雑誌やカタログ、一過性と思える編集物をスクラップブックに再編集。
スクラップってこんなに力をもつのね。特に時間が経つと。
幼稚園のときから続けてきたという @ さんの分類整理、
やばすぎ。
SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS [SPBS]
facebook

2011年5月5日木曜日

むせかえる世界

真紅のドレスが鮮烈。むせかえる。
裾のふくらみは、許され潜りこんでいる男。
砂山典子 @nitehi works

2011年5月4日水曜日

Dancer in the Dark

ダンサー・イン・ザ・ダーク
ラース・フォン・トリアー監督 2000年
ビョーク/デヴィッド・モース
ピーター・ストーメア/カトリーヌ・ドヌーヴ

主人公セルマが夢想するミュージカルシーンは見ごたえあり。鉄道の音が音楽になる"I've Seen It All"、絞首刑台へ向かう"107 Steps"がいい。
しかし救われねえ・・・
この監督の作品はみんな重いけど、これは超弩級。

2011年5月3日火曜日

神って数字のゼロに似た概念なんじゃないかな

「うん!それにね、なんだか前にはよくわかんなかった神ってやつの存在も近頃はなんとなくわかる気がしてきたんだ。もしかしたらだけどさ、数字のゼロに似た概念なんじゃないかなって。要するに体系を体系足らしめるために要請される意味の不在を否定する記号なんだよ。そのアナログなのが神で、デジタルなのがゼロ。どうかな。でね、僕たちって基本的な構造がデジタルなわけじゃない? だから僕たちがいくら情報を集積していっても今のところゴーストは宿らない。でも基本がアナログベースなバトーさんたちは電脳化したり義体化してデジタルな要素を増やしていってもゴーストが損なわれることはない。しかもゴーストがあるから死ぬこともできる。いいよねぇ。ねぇねぇ、ゴーストがあるってどんな気分?」
S.A.C.第15話『機械たちの時間』 バトーと話すタチコマ

2011年5月1日日曜日

【本】疲れすぎて眠れぬ夜のために

内田樹 著

戦後の日本の復興を担ったのは明治生まれの人たち。敗戦直後に政治経済や文化的な活動を牽引したのは明治20年代、30年代生まれの人々だった。この人たちは日清日露戦争と二つの世界大戦を生き延び、大恐慌と辛亥革命とロシア革命を経験し、ほとんど江戸時代と地続きの幼年時代からスタートして高度成長の時代まで生きた。
そうゆう波瀾万丈の世代ですから彼らは根っからのリアリスト。あまりに多くの幻滅ゆえに、簡単には幻想を信じることのないその世代があえて確信犯的に有り金を賭けて日本に根づかせようとした「幻想」、それが「戦後民主主義」だ。
みな従軍経験があって、戦場や空爆で家族や仲間を失ったり、自分自身も略奪や殺人の経験を抱えていた人たち。だから「戦後民主主義」はある意味では、そういう「戦後民主主義的なもの」の対極にあるようなリアルな経験をした人たちが、その悪夢を振り払うために紡ぎ出したもうひとつの「夢」なのだ。
ぼくたちの民主主義は、ある世代が共同的に作り出した脆弱な制度に過ぎない。それを守るためには、それが「弱い制度」だということを十分に腹におさめておかなければならない。
「民主主義でない制度」はいくらでもありえる。成員が民主主義社会を「信じるふりをする」という自分の責務を忘れたら。ぼくたちの社会は別の制度に簡単にシフトするだろう。民主主義というのは、そのことを知っている人たちの恐怖心に支えられた制度。
ぼくたちの世代が失ったのは、この「恐怖心」。「この社会はオレが支えなくても、誰かが支えてくれる」という楽観論。そんな「誰か」はどこにもいない、ということがぼくたちの世代には切実には分かっていない。
日本がダメになり始めたのは70年代。明治、大正生まれの「怖いものを見た」リアリストたちの世代が社会の第一線から退いたときと符合する。この世代の退場とともに、日本からは本当の意味での「エリート」つまり「リスク・テイカー」も消えたのだ。

世代論より抜粋