
『We Want Miles』《マイルス・デイビス生誕100周年記念トーク&試聴イベント》

レクチャーホールB
独特のユーモアと脱線を交えながら、自身の学生時代から日本絵画の本質、制作におけるメンタリティまでが深く語られています。
「落書き少年」から美大へ:もともとはメカの落書きばかりを描いている少年だった。1浪ののち多摩美術大学(造形学部にも合格したが学費等の切実な理由で多摩美を選択)に入学。当時の橋本周辺はまだ自然が残る野生的な環境だった。
東京藝術大学への再受験:多摩美での生活に愛着はあったものの、未練があり芸大を受験し直して合格、移籍した。
独自の「系統発生」アプローチ:油画を学ぶにあたり、人間が胎内で進化の過程を辿るように、自身も西洋美術史(古典技法から印象派、キュビスムまで)を自らに課した課題でトレース(追体験)した。その上で「日本人として、トレースした西洋絵画と日本のものをぶつけたらどうなるか」という試みから独自のスタイルが始まった。
「自分の中に日本がない」という気づき:侍や鎧などの記号を描いてみても、最初は形が全く描けず、博物館に通って調べる解像度の低さに直面した。
本物からの衝撃(小美術研修旅行):奈良や京都で天井照明ではなく、日本の建築空間(横からの光や畳の反射)の中で見る本物の大和絵や障壁画に触れ、その圧倒的な「絵の強さ」に衝撃を受けた。
画材に身を委ねる「型稽古」:失敗が許されない日本画の画材(炭や岩絵具)において、現代人の頭で考えず、とにかく先達の真似をして描いてみることで、身体感覚やメンタリティを同期させていった。
空間性とレイヤー:西洋的な透視図法(パース)や光の陰影(影)を用いない。パースがつかないことで画面全体の圧が高まり、絵が強くなる。また、金箔や炭のノータン、ハケ目の有無などを何層も重ねる(レイヤー)ことで、空間に信じられない奥行きを生み出している。
時間の積層:1つの画面、あるいは1つのポーズの中に、目でたどる複数の異なる時間が流れており、それが人間を見たときの実感に繋がっている(彦根屏風などの例)。
雪舟(雪舟等楊)の凄み:雪舟の絵を解析すると、実は明らかに引く方向を間違えたような「失敗の線」がたくさん残っている。しかし、雪舟はそれを気にせず堂々と構え、失敗の触れ幅から持ち直す圧倒的な「復元力(バイブス)」で絵を成立させている(マイルス・デイヴィスのジャズセッションにおける失敗と転調の例え)。
「怖さ」と「恥ずかしさ」に飛び込む:自分の立脚点から嘘をつかずに描くこと、そしてこれまでの枠組みを破る時の「怖さ」や、内面をさらけ出す「恥ずかしさ」の先にこそ、時代を変えるようなその人の本当の表現がある。
山口氏にとって、古い絵を見ることは歴史の解釈ではなく「作者の生理との同期(追体験)」である。そのため、古典であってもまるで今目の前で発生しているかのような「現在性」を持って迫ってくるものであり、常に自身の作品へ落とし込むための現在進行形の発見に満ちている。
落語(古今亭志ん朝・志ん生)の構造や、建築物(二升亭)のエピソードなども交えつつ、「上手く綺麗にまとめること」よりも、「整合性をあえて破り、自分の身体と感覚に嘘をつかない表現へ泥臭く飛び込むこと」の大切さが一貫して語られた講義内容となっています。
鳥獣人物戯画の凄み: 形が完全に頭に入っている人が描いており、線の引き方や置き場所に一切の隙がない「ものすごく上手な絵」であると絶賛。即興性がありつつも、スタジカ性(構成美)があり、目で追わざるを得ない魅力がある。
集団による編纂: 巻ごとに筆者が異なっていたり、書かれた場所が違ったりしたものが後からまとめられた点に触れ、「人が見ている前で、楽しみながら描いた速さ」が残っていると分析。
油絵と日本画のハイブリッド: 水墨画(雪舟など)の「線や呼吸」をいかに油絵に持ち込むかを模索してきた。自身は筆圧が強いため、普通の筆だと油絵の具を引っ張ってしまう。そのため、セーブル(柔らかい筆)に油を多めに解いて呼吸を合わせる工夫をしている。
空間の配置と揺らぎ: 遠近法に頼らず、手前と奥が同じ大きさで描かれるとき、目をどう横や縦に滑らせるかを自覚的に行っている。綺麗に整えすぎず、少し揺らめかせる「呼吸」が大切である。
画面の調整役としての雲: 画面の密度や圧が高くなりすぎて息苦しくなったとき、メリハリをつけて「目を導く」ために雲を描く。
締め切りとの戦いから生まれた雲: 制作が予定通りに進まないとき、一瞬で画面を埋める「締め切りの調整」として雲を使った経験をユーモラスに告白。これが結果として、職人のような命がけの画面調整(必然性)に繋がっていると感じた。最近の自身の絵が少し工芸的(綺麗にまとまりすぎ)になっていたため、野生的な荒々しさを取り戻すために「ニュークラウドバージョン」に挑戦したいと語る。
「型」を習得して忘れる: 毎回意識していては絵が描けないため、まずは体を使った感覚(型)から入り、それを腹に落として無意識化(自動化)させる。
思考は「息を止める行為」: 基本は無意識で進めるのが一番間違いない。思考(意識)は問題が起こったときに呼び出されるもので、ジャズプレイヤーの理論と同じく「困ったときには必要だが、普段は忘れているもの」。考えすぎは「息を止めている状態」に近く、やりすぎると溺れてしまう。
山口氏自身、過去に2回ほど極限の集中状態で世界の見え方が変わる「変成意識」を体験した(高校時代のテスト時と、大学時代の泥酔時の帰り道)。
水戸での「絶望の底が割れた」体験(2015年頃): プレッシャーと緊張でくよくよ悩み、全く筆が進まなかったある朝、「ダメだ、だって俺が悪いんだもん」と自罰的な絶望を受け入れた瞬間、凄まじい多幸感が訪れた。他者からの批判や辛さがすべて消え去り、お釈迦様の悟りのような境地(放越)に達した。
自他の切り離し: 「相手がどう思うかはその人の課題であり、自分とは関係ない」とスパーンと分かれた。この「自他の切り離し」は、考えすぎて絵が描けなくなったときに今でも思い出すようにしている。当時の自撮り写真は、眉間がパカンと開き、仏像のような半眼になっていた。
意味に修練させない言葉: 「リンゴ」という言葉を使うと、受け手は自分の知っているリンゴの枠から出られなくなる。あえてオノマトペ(シュー、クワガなど)を使うのは、意味性をあいまいにすることで、見る人の輪郭線を外し、絵の細部や手の痕跡をそのまま体験してもらうため。
セザンヌの「サンスィオン(感覚)」: 絵を描くときは、言葉による解説(ディスクリプション)をした途端に絵が見えなくなってしまう。セザンヌが風景と2人きりになって自身の感覚に殉じたように、物作りの原点は「今、感覚している世界と向き合うこと」にある。
アーティゾン美術館での「斜めの部屋」の展示は、私たちが刷り込まれている「垂直軸(重力)」と「建物の柱」を意図的にずらすことで、肉体的な感覚を揺さぶるアトラクション的な試み(現代の体験型展示へのあてこすりも含みつつ、絵画が本来持つ「感覚による体験」を思い出させるための仕掛け)。
全白の部屋(モスキート・ルーム)では、遠近感を無くすことで、自分の眼球(の中の硝子体の濁りなど)が直径15センチほどの球体として見えてくる体験を設計した。見るということは「その場所に行ってしまうこと」であり、身体の大きさを自在に変えて絵の中に入り込んで遊んでほしいという願いが込められている。
山口氏の「第一の目撃者になりたい」「制度の側に軸足を置かず、自分と絵の染み付けの中で真摯に描く」という、画家としての純粋な姿勢が強く伝わる質疑応答となっています。
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