なるほど。電力のローカライゼーション。支持できる将来像。
電力は装置産業だけど、放送がITによって装置産業でなくなりつつあるように小規模で成立できる可能性もある。発電・送電分離ができれば加速するだろうし。
風力、太陽光、地熱、潮力・・・地域性や特色をもった電力メーカーが生まれ多様性をもてるとよい。
福岡ハカセの動的平衡「線形性から非線形への回帰」パラダイムシフトに通じる。
消費者と生産者がお互いを思いやれる関係ってのは魅力ですよね。
さて、電気屋の話だけど、大企業、旧体制の解体、自由化というのは、僕には抵抗がある。これまでの様々な「自由化」は、ある程度の資本力のあるフランチャイズとかに乗っ取られ、地域の多様性や結びつきは競争の名のもと淘汰されたわけだし、簡単に言っちゃダメなんじゃないかな。
「自由化」「競争」が、フェアだって、かっこいいって、実は僕はそうは思ってない。自由化というのは、必ず「競争」を生むから、その中で「電気代」が、最優先されるのは目に見えてる。競争は、弱者を生むよ。
話はずれるようだけど、「町の工務店」が、心無いハウスメーカーの下請けになり、粗悪な材料と職人不要の工法の中におとしめられていく。僕はそれをみてきたから。
「町の」商店街だって、おんなじだって、思った。「町の」分だけつくっておけばよかった豆腐屋は、オカラを産業廃棄物とよぶトウフファクトリィには、価格でかなう訳ないよ。でもそれが自由化で競争。
電気は自由とか、競争とか、しちゃいけないんじゃないかと思うんです。どうやってやるかは想像もできないけど、「安くする」ための皺寄せは必ず上層の給料ではなく、賃金や原材料費や粗悪化にくるから。
ただ、前にも言ったけど、現在の電力会社や、発電所の数と、それがカバーする地域範囲は、僕も明らかに違和感がある。もっと小さな発電所で、もっと小さな地域をカバーする方法論は、あるはずだと思うんです。
例えばヤクルトの営業所とか、子どもの頃に比べたら、すっごい少なくなったよね。それって、ヤクルトレディが自転車でなくバイクに乗るようになったからだと僕は思ってる。交番が減ったのも効率化。でも「効率化」は、地域との結びつきを確実に希薄にしていった。
ちなみに僕は今のように、「電力会社」から一足飛びに、「自家発電」になることに違和感を感じないこともなんか気持ち悪い。そこでもコミュニティという概念を壊した「自由」と「競争」が、顔を出す。
他人の集まりであるトウキョウの価値観はそれでいい。でも、まだカゾクのいっこ上の集まり「シュウラク」が残ってる地方にはもう少し他の考え方があるんじゃないかな。
「値段で比べたりなんかしないよ、ウチは代々山田サンところで醤油買ってんだよ」っていうような、カネを越えた結びつき。電気だって、本当は一緒じゃないかと思うんです。だからもう少し小さい単位での、発電と送電を考えていくことは出来ないんだろうか。「競争」ではなく、「繋がり」で。
今の電気屋みたいに大きくてよく解んない怪物は「セイジ」や「コッカ」や「ガッコウ」と同じで、いくらでも批判出来る。でも、もっと小さな単位の、自分に近い存在だったなら、「一緒に考える」「一緒に堪える」って、出来そうな気がするんだよね。