2010年4月10日土曜日

【本】できそこないの男たち

福岡伸一 著


 今日、一見、オスこそがこの世界を支配しているように見えるのは一体なぜか。それはおそらくメスがよくばりすぎたせいである。
 卵を産んだあと、あるいはそこから子どもが孵ったあと、オスがなお子どもを育てるための役割を担わされている種は限られている。それは本来、オスがメスから作り出されたときの役割ではなかった。おそらくメスがそのうちに気がついたのだ。遺伝子を運び終わったオスにまだ使い道があることに。
 巣を作る。卵を守る。子どもの孵化を待つ。そのための資材を運ぶ。食料を調達する。メスの代わりをしてメスに自由時間を与える。そのような役割が徐々にオスに振り当てられていった。そのことにメスが「気づいた」、あるいはメスがオスに役割を「振り当てた」。ダーウィニズムに従えばそのようなオスの役割をたまたま採用した種が生存上有利になったと説明されよう。
 ヒトの祖先の場合、子どもの遺伝子の半分を運んできた男に、女はそれ以上の役割を期待し、また同時に命じた。なだめすかしたり、泣いたりわめいたり、あるいは褒章を示唆したり。それは今日、女たちが使っている方途とそれほど変わらないものだったろう。女たちは男に、子育てのための家を作らせ、家を暖めるための薪を運ばせた。日々の食料を確保することは男の最も重要な仕事となった。身を飾るための宝石や色とりどりの植物、そのようなものも求めたかもしれない。絵を描かせたり、何か面白いものを作らせたこともあったろう。
 実に、ここに余剰の起源を見ることができる。男たちは薪や食料、珍しいもの、美しいもの、面白いものを求めて野外に出た。そしてそれらを持ち帰って女を喜ばせた。しかしまもなく今度は男たちが気づいたのだ。薪も食料も珍しいものも美しいものも面白いものも、それらが余分に得られたときには、こっそりどこか女たちが知らない場所に隠しておけばいいことを。余剰である。
 余剰は徐々に蓄積されていった。蓄積されるだけでなく、男の間で交換された。あるいは貸し出された。それを記録する方法が編み出された。時に、余剰は略奪され、蓄積をめぐって闘争が起きた。秩序を守るために男たちの間で取り決めがなされ、それが破られたときの罰則が定められた。余剰を支配するものが世界を支配するものとなるのに時間はそれほど必要ではなかった。


 生物の基本仕様、デフォルトとしての女性を無理やり作りかえたもの、カスタマイズしたものが男であり、そこにはカスタマイズにつきものの不整合や不具合がある。生物的には男は女のできそこないだといってよい。だから男は寿命が短く、病気にかかりやすく、精神的にも弱い。しかし、できそこないでもよかったのである。所期の用途を果たす点においては。必要な時期に、縦糸で紡がれてきた女系の遺伝子を混合しるための横糸。遺伝子の使い走りとしての用途である。
 使い走りは使い走りとしての役目を一心に果たした。使い走りはずっとずっと女性に尽くしてきた。使い走りだけではない。女性の命ずるまま、命ずるものすべてを運んでこようとした。
 それにしてもなぜ男はここま女性に尽くしてしまうのか。
端的にいえば、男が尽くすのはあの感覚から逃れられないからである。それは男を支配する究極の麻薬だ。
 自然は、加速を感じる知覚、加速感を生物に与えた。進化とは、言葉の本当の意味において、生存の連鎖ということである。生殖行為と快感が結びついたのは進化の必然である。そして、きわめてありていにいえば、できそこないの生き物である男たちの唯一の生の報償として、射精感が加速感と結合することが選ばれたのである。