東京大学制作展 EXTRA 2015
テーマ「グッバイ・マイ・ボディ」がいい。
とても面白かった。
「うーん、なるほど!」という作品が多かった。ぞ。
今年は文系学生の参加が多いという。(理系オンリーだと思ってた)
会場で配られた案内に、その文系さんのテキストがあったので転載。
テーマ「グッバイ・マイ・ボディ」がいい。
とても面白かった。
「うーん、なるほど!」という作品が多かった。ぞ。
今年は文系学生の参加が多いという。(理系オンリーだと思ってた)
会場で配られた案内に、その文系さんのテキストがあったので転載。
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グッバイ・マイ・ボディ
世界的なメディアアートの祭典アルス・エレクトロニカの2007年度のテーマは『グッバイプライバシー-すばらしい新世界へようこそ(GOODBYE PRIVACY-Welcome to the Brave New World!)』というものであった。これは、プライバシーというものが消滅しつつある時代的状況を反映していた。例えば、街中には監視カメラが張り巡らされ、私たちがインターネットですることは逐一記録されてマーケティングなりなんなりわけのわからないことに使われている。PASMOを経由して私たちがどこから来てどこへ行くかは把握されてクレジットカードによる買い物も記録されることでデータに還元される。そのうち、息をすることでさえも記録されてなんらかの情報に還元される時代がきそうだ。プライバシーという概念は、ほんの最近の発明物であるが、私たちはどうやら最早それとお別れしつつあるらしい。そんな世界のことを、アイロニカルに「すばらしい新世界」(オルダス・ハクスリーが1932年に発表したディストピア小説のタイトルから引用)と名付け、とりあえずグッバイしてみせたのがこのアルス・エレクトロニカだった。
しかし、いまになって考えれば、私たちがグッバイしつつあるのはどうやらプライバシーだけではないようだ。最先端のテクノロジーは、ゆるやかにすすんでいた「身体」との「お別れ」をかそくさせつつある。
例えば、2006年に発売されるやあっという間に広まったiPhoneは、いまや私たちの脳みその代わりとして大活躍している。この手のひらにおさまる脳みそのおかげで、私たちがアクセスできる知は飛躍的に拡がったし、いろんなことをわざわざ自分で記憶せずに済むようになっている。辞書も地図も電話番号も自分の脳みそではなくて、この手のひらサイズの脳みそに覚えさせたほうが楽で便利に決まっている。どうやら脳みそとのお別れは近そうだ。また、最先端の義足を使えば金メダルが取れるほど速く走れてしまう。これでは、こんなのろまな足なんてとっとと捨てて、最先端の義足に付け替えてしまったほうがよさそうに思える。猿から人へと進化するときに欠かせなかったこの足というものとも、そろそろさようならするときがきたのかもしれない。また、最近話題のSTAP細胞では厳しいが、ips細胞を使えば、心臓だってなんだってお手のものな時代がやってきつつある。アルコールで弱りきった肝臓と、タバコで汚れきった肺なんかはさっさと付け替えてしまいたいものである。肝臓や肺に限らず、なにか欠陥のあるものはどんどん取り替えられる世界はすぐそこなのだ。こんなふうに最先端の技術について考えていくと、私たちはどんどん身体と「お別れ」する方向に進んでいるように思われる。
もちろん、いまさらとりたてて言うまでもなく、人類が石器でカチンコチンし始めたときからこの身体との「お別れ」は緩やかに進んできたことである。ご先祖たちが必死にカチンコチンしてつくりあげたナイフやハンマーは、立派な身体の外部化であったし、人類は幾度もそういう身体とのお別れさようなら」を経てきた。なにもiPhoneのはなしなんてするまでもなく、そもそも紙・文字・書物が発明されたときから、脳みその取り出しは始まっていたのかもしれない。身体とのお別れはいまさらとりあげるまでもなく、有史以前からこの先の未来に至るまで、人類とともに進んでいく事象なのである。
ただ、昨今の技術の発展は、この事象の進展を、いままでとは違うレベルへと加速させつつあるようだ。身体は足早に私たちから離れつつあるのだ。
もちろん、身体とはさっさとさようならして、映画『マトリックス』のように快適なバーチャル・リアリティの世界でいきていきたいという考えもあるだろう。また、そこまで極端でなくとも、どんどん技術が発展して、この身体につきものの問題を解決できるなら、それに越したことはないという見方もあるだろう。一方で、痛みや老いといった身体の不完全さに愛着を感じて、身体感覚の急速な変化に、一抹のノスタルジアと本能的な抵抗をおぼえずにいられない人もいるであろう。とにかく、どのように考えているにせよ、身体というものは仮にも私たちが猿(アメーバ?)だったときから連れ添ってきて、これからもしばらくは連れ添っていくであろう存在である。「お別れ」を言わずにさようならするには、あまりに長いつきあいの身体なのだ。そこで、これから訪れる身体のあり方に向き合うためにも「お別れ会」という形をつうじて一度身体について考えてみるのはどうであろうか。身体がどこかへいってしまう前に、一度身体とのお別れ会をしようではないか。
東京大学制作展 EXTRA 2015