2011年9月17日土曜日

メタボリズムの未来都市展

川添登のインタビューによると、剣持勇がアスペンで「1960年に日本で世界デザイン会議を開催する」と勝手に言い放ってきたのが始まり。開催準備の年、建築の中心人物丹下健三は、ハーバードで教鞭をとることが決まっていた。丹下は「浅田孝がまとめろ」と言い残して渡米。浅田は若手建築家、菊竹清訓、黒川紀章、大高正人、栄久庵憲司、粟津潔、槇文彦を召集して「どーせなら何か発表しよう」と話し合い「新陳代謝する建築・都市」を打ち出し宣言したのが『METABOLISM/1960 - 都市への提案』
おもしろい。締め切りと義務と責任が短期間で思想をまとめたのね。若い才能に活躍する場をあたえた。(黒川は近寄ったり離れたりだったみたい)単に感覚から作り出した思想ではなく、調査研究に基づいているので50年後の今、再考できる。このグループの集大成が70年の万博。いまだに夢の未来都市を思い出す。現実に体験できるSFだった。
この展示会を通じて菊竹清訓を再評価する人が多いのではないですかね。私はその一人。