私は幼児期から祖父母とともに長屋での暮らしを始めた。というのも戦争が激しくなり連夜の空襲でそれまで住んでいた大阪港近くの家も焼かれ、疎開生活を余儀なくされたからだ。終戦後、焼け野原が広がる大阪に戻り、都心外れの長屋にやっと落ち着いた。夏暑く、冬は寒い小さな住まいの奥に狭い庭があった。
三十代初めに設計した「住吉の長屋」は、私が住んでいたのと同じような三軒長屋の真中を切り取って、二間×七間の敷地にコンクリートの箱を挿入し、さらにその平面を三分割し、中央部を外気に開放した中庭とし、自然の光や風を導き入れようとした住宅だった。当時の建築界を支配していた機能重視の考え方に異論を唱え、たとえ動線がたち切られても、失われゆく自然を住宅の中に取り込みたいと考えた。しかし、外部を通らないと次の部屋に行けないような設計はありえないと考えられていた。雨の日は傘をさして居間からトイレに行くその住宅は、当時、画期的であると評価した一部の批評を除いて、大半の論者からその欠点の大きさを指摘された。発表して年月が経過してからも、評価は厳しかった。
その「住吉の長屋」が吉田五十八賞という由緒ある建築賞の候補に上がった。最終選考の段階で、当時の建築界の重鎮、故村野藤吾先生が建物を見に来られた。
当時の私は、若気の至りというか、自分の主張がそのまま受け入れられなければ、その仕事から下りるくらいの勢いで設計をすすめていくのがつねだった。
村野先生は開口一番「よくできているね」と言って下さった。私は、その言葉に安堵し、自分の意図や、苦心したところなど話しながら、その狭い住宅を案内した。
先生はやがて住み手と話し出し、お茶を出してくれた奥さんと、設計から竣工に至るまでのいきさつ、住み心地など話されていた。村野先生は、施主家族と単に雑談しているだけかと思っていたが、あとから考えてみると、そこから何か極めて本質的なことを引き出そうとしておられたのだろう。
先生は、「この建物の良し悪しはともかくとして、この狭い中で生活が営まれていることに感銘を受けた。住み手に賞を与えるべきであろう」とおっしやってその場を去られた。結果は落選であった。設計者として、いかにこの悪条件の中で、常識を打ち破って、豊かな生活空間をつくろうとしたか、それを私はわかってもらおうとした。しかし、村野先生は、この住宅は施主の理解と忍耐がなければ成立せず、私ひとりの力によるものではなく、施主の無言の協力があってこそ成立しているのだということを見ぬかれていた。私は浅はかだった。
考えてみれば、この住宅の唆工までには設計者の志向だけではどうしようもないことが数多くあった。私が設計者としてだけでなく、生活者としても長屋の構造をいかに知り抜いていたとしても、三軒長屋の真中の家だけ切り取る危険を冒さねばならない。この至難の技をやり遂げた大工の心意気にまず敬意を表さねばならないし、木造家屋の間に突如現れたコンクリー卜の箱を受け入れた両隣や近所の理解、隣家ぎりぎりにコンクリートの壁を打設するという難作業を引き受けてくれた工務店に感謝しなければならない。
何より、この建物をつくる機会を私に与え、常識を超えた案に理解を示し、そこに何十年かの間住む決意をし、不平も言わず今も住みつづけてくれている施主こそは、実は真のつくり手であると言えるかもしれない。
村野先生の言葉には、後の人生の糧となる大切なことを教えられた。
日経新聞2000/02/20