2009年7月31日金曜日

【本】プラス1%の企画力

中谷彰宏著
【面白くないことを、面白くすることが、プラス1%の企画力だ。】

「企画力」という言い方をすると、企画部に配属になって何かプロジェクトの企画を考えると思い込みがちです。
でも、企画力とはそういうことではありません。
昔からある言い方では「ひと工夫」です。

アイデアを1%加えようとする人は、1.5倍にも2倍にも3倍にもふくらますことができます。
常に「あと1%何かできないか」と考えていく時に人間の頭は回り始めます。
それと同時に、まわりがプラス1%の工夫をしていることに気づけるようになるのです。

たとえば「コピーをとる」「電話を取る」「掃除をする」「雑用をする」こともすべて企画力が必要です。
今自分のやっている仕事が面白くないのは、企画部にいないからではありません。
誰がやっても同じ仕事にプラス1%の企画を足していないからです。

最も企画力が求められるのは、誰がやっても同じ仕事を誰がやっても同じにならないようにすることです。
面白い仕事と面白くない仕事は、天地の開きがあるのではありません。
たった1%の違いがあるだけなのです。

「まえがき」から

2009年7月26日日曜日

【本】アインシュタイン丸かじり


志村史夫著

奇跡の年「1905年」
1. 光の粒子説(3月論文)
2. 分子の大きさの決定法(4月論文)
3. ブラウン運動(5月論文)
4. 特殊相対性理論(6月論文)
5. 質量とエネルギー(9月論文)

2009年7月22日水曜日

2009年7月20日月曜日

【本】自然な建築

隈研吾著
 20世紀には存在と表象が分裂し、表象をめぐるテクノロジーが肥大した結果、存在(生産)は極端に軽視された。20世紀は広告代理店の世紀であったと要約した人がいるが、表象をめぐるテクノロジーを競い合う時代の主役こそ、他ならぬ広告代理店であった。表象の操作を繰り返せば、広告だけは無限に作り出すことができ、それなりの感動も驚きも作り続けることはできる。しかし、それは人間の本当の豊かさとは関係ない。
 広告代理店にとっての豊かさではなく、人間にとっての豊かさを探りたければ、建築をどう生産するかに対して、われわれは再び着目しなければならない。その大地を、その場所を材料として、その場所に適した方法に基づいて建築は生産されなければならない。生産は、場所と表象とを縦に貫く。あたりまえの話だが、場所とは単なる自然景観ではない。場所とは様々な素材であり、素材を中心にして展開される生活そのものである。生産という行為を通じて、素材と生活と表象とが、一つに串刺しにされるのである。生産とは、そのような垂直性を有する。その結果として、自然な建築が生まれる。場所に根をはった、自然な建築ができあがる。かつてフランク・ロイド・ライトはラジカルな建築とは、実は自然に根をはった建築なのだと言い放った。ラジカルと根っこという言葉が同じ語源をもつことを忘れてはならないと彼は語った。ウィスコンシンの田舎育ちという自分の根っこが、自分のラジカリズムの原点であると宣言したのである。
 その意味で、日本の大工は驚くほどラジカルである。しばしば、家を建てるならその場所でとれた木材を使うのが一番良いと語り伝えられてきた。機能的にも、見かけも一番しっくりくると伝えた。それを一種の職人の芸談として、神秘化してはいけない。場所に根の生えた生産行為こそが、存在と表象とをひとつにつなぎ直すということを、彼らは直感的に把握していたのである。その方法の現代における可能性を、具体的な場所を通じて、ひとつひとつ探っていくのが、この本の主題である。

・水/ガラス(1995) タウトが日本に見た「関係性」
・石の美術館(2000) 芦野石の職人・「とりあえず」システムの回避
・ちょっ蔵広場(2006) ライトの大谷石・「不純」な構造
・那珂川町馬頭広重美術館(2000) 広重の雨・燃えない木
・グレート(バンブー)ウォール(2002) 現場の建築家
・安養寺木造阿弥陀如来坐像収蔵施設(2002) 日干し煉瓦・制約への挑戦
・亀老山展望台(1994) 人工と自然の境界線
・高柳町,陽の楽家(2000) 和紙職人・伝承技術

2009年7月19日日曜日

【本】ドラッカー365の金言

P.F.ドラッカー著
ジョゼフ・A・マチャレロ編
上田惇生訳

1月1日:組織の精神はトップから生まれる。
 真摯さを絶対視して、はじめてマネジメントの真剣さが示される。それはまず人事に表れる。リーダーシップが発揮されるのは真摯さによってである。範となるのも真摯さによってである。
 真摯さはごまかされない。ともに働く者とくに部下には、上司が真摯であるかどうかは数週間でわかる。無能、無知、頼りなさ、態度の悪さには寛大かもしれない。だが、真摯さの欠如は許されない。そのような者を選ぶ者を許さない。
 このことは、とくにトップについていえる。組織の精神はトップから生まれるからである。組織が偉大たりうるのは、トップが偉大だからである。組織が腐るのはトップが腐るからである。「木は梢から枯れる」との言葉どおりである。
 範とすることのできない者を高い地位につけてはならない。

12月31日:知識労働者に道具は1つしかない。情報である。
 情報とは組織を一体化させるものであり、かつ一人ひとりの知識労働者に成果をあげさせるものである。したがって、組織としても個人としても、いかなる情報を必要とし、いかにしてそれらを手に入れるかを知らなければならない。そして、それらの情報を主たる資源として体系化する方法を知らなければならない。
 データ通から情報通へと進化するには、組織がいかなる情報を必要としているか、自分がいかなる情報を必要としているかという二つの問いに答えなければならない。
 そのためには、第一に、自分の仕事は何か、何でなければならないか。第二に、自分の貢献は何か、何でなければならないか。第三に、組織にとって重要なことは何か、何でなければならないかを考えなければならない。

2009年7月18日土曜日

LEDZ-DIM


R-7 + REVOX-PowerSupply + X239W

遅れてフェードアウトするように見えるのは素子や調光電源の物理的な特性ではなく、調光電源に搭載したマイコンのソフトによって"0"まで絞り込んでいるから。

実験対象のPWMコントローラはボリュームを"0"に絞り込んでも「ある程度レベル」の信号が発信されている。このタイプのコントローラは蛍光灯調光が目的で立ち消え防止しているためと思われる。P社製も同じ。
今回開発した調光電源では「ある程度レベル」の信号でフェードアウト消灯するようにプログラムしている。

LIOSやLITRON、DALIなど、PWM信号を発するシステムによっては異なる動きを見せる可能性あり。プログラムの微調整を要すると思われる。

※PWM(Pulse Width Modulation:パルス幅変調-パルスはばへんちょう)とは変調方法の一つであり、パルス波のデューティー比を変化させて変調すること。機械工学などにおいては、スイッチon/offの比率を変化させる手法。

LED は適切な電圧と電流を流して点灯させるが、電圧や電流をコントロールすれば間接的に光束を変化させることができる。この方法で調整するとLED の発光する色が多少変化するが、PWM制御では電流・電圧が変化しないので色変化はない。光束を連続的に変化させる場合は発振器の周波数を固定して、点灯時間幅を変化させる。点灯時間を短くすれば光束を落とせる。
LEDは半導体であり、超高速点滅が可能。

2009年7月17日金曜日

【本】かけひきの科学

唐津一著
「あることが起きていても、そのことについての情報を手に入れるまでは、そのことがなかったときと同じ状態にある。-これを情報という」・・・ウェブスター英英辞典

「情報とは、それが到着、あるいはそれを入手したとたん、環境を一変させる力を持つ。もちろん到着しないかぎり、なんの力ももないのである。(P.35より引用)」

2009年7月16日木曜日

【本】アップルの法則

林 信行著
「何か問題を解決しようとする時、最初に思い浮かぶ解決法は非常に複雑なものだが、多くの人はそこで考えるのを止めてしまう。しかしここで考えることを続け、問題をさらによく見て、タマネギの皮をもう少し剥いていくと、しばしばよりシンプルでエレガントな解決策にたどり着くことがある。多くの人々はそこにたどり着くための時間や労力をかけていないのだ。」
スティーブ・ジョブズ

2009年7月14日火曜日

【本】大槻正の言葉

 大槻正は、平成十五年八月、周囲の人たちの度肝を抜いた。何とまたソニーを辞めた。選んだのは、香港に本社を構える部品メーカー。大きな会社はやはり性に合わない。小さな枡でも自分の手足を広げられるところの方が燃えるのだという。
「人生、会社を選ぶのではない。仕事を選ぶんだと言い聞かせています。そして、いつもチャレンジです。情熱の持てる仕事ができるところなら、私はどこでもいいんです。生涯一技術者。就職はしますが就社はしません。物を作り上げる喜びを感じていたいと思っています」
 デジタルオーディオ編集機、光磁気ディスク、そしてAIBO。世界初に挑み続けてきた技術者・大槻正は、「本当に世の中の人を驚かし楽しんでもらうようなものをまた作りたい」と言う。

「プロジェクトX 新・リーダーたちの言葉」より

1948年京都府生まれ。1972年静岡大学工業学部卒業後、ソニー㈱入社。カラーテレビ選局システム開発、光磁気ディスク開発、商品化などを経て㈱ナムコに転職し、3次元CGの開発研究を担当。1997年エンターテイメントロボット(ER)開発・事業化のチーフとしてソニーに戻りAIBOの開発・商品化を行った。ER開発の組織は2000年から社内カンパニー化し、副社長として活躍後、スミダコーポレーション㈱に入社、グローバル経営を実践。2006年12月より㈱ニコンに入社し、映像カンパ二―で新規事業開発を担当。

2009年7月13日月曜日

消防技術試験講習場

防火・防災管理新規講習  定員260名 男女同比率

火災で恐ろしいのは火ではなく煙。
一酸化炭素を吸入すると急速に酸素が失われ脳の活動ができず、意識不明となる。
火災の最多原因は放火。
漏電やスパークからの出火も多い。
火の元が無い場所でも火災は起きる。

震災時、同時多発的に火災が起きる。
消防署は所轄だけの活動となり、稼動機材が少ない。
避難路確保を優先するので広範な消火活動は困難。
救急隊は出動せず本部で救護所を開設。治療に専念する。
阪神・淡路大震災では救助活動の95%は近隣幇助によるもの。
消防の活動による成果は5%に過ぎない。
自助、共助が重要。
まず自分の身は自分で守り、仲間を助け、近隣を助ける。

火災は起きるものと考えること。
パニックを起こさないように訓練しておくこと。
身体で覚えたことは実行できる。頭で覚えたことは実行できない。

火災を発見したら速やかに消防署へ通報すること。
初期消火にあたること。消火器確認。
近隣へ知らしめること。非常ベル鳴動。
防火区画を確認すること。特に防火扉閉鎖。煙の拡散を防ぐ。
排煙稼動を確認すること。
非難すること。避難路、防火扉開錠確認。

2009年7月12日日曜日

【本】生命と食

福岡伸一著

食物・環境・生命
 生命は、絶え間なく分解と合成を繰り返す、ダイナミズムの中にあります。鴨長明は『方丈記』に「ゆく河のながれは、絶えずして、しかももとの水にあらず」と書きましたが、まさに生命は川のような流れの中にあり、この流れを止めないために、私たちは食べ続けなければなりません。そして、食べ、生きるということは、体を地球の分子の大循環にさらして、環境に参加することにほかなりません。地球全体にある元素の総量は、実は、それほど変わりません。あるときには海に、あるときには風に、あるときには生物になって、元素はぐるぐると回っています。
 私たちが食べるものは、穀物も、野菜も、肉も、魚も、もともとは他の生物の体の一部です。人間は、他の生物を殺め、その生物たちが蓄えたタンパク質や糖質を収奪して、口にせざるをえません。しかし、私たちを形作っている分子は、自分のものであって自分のものではない。一瞬は留まっているけれども、私たちの中を通り抜け、次の瞬間には別のところへ流れていきます。
 呼吸をして体外へ出ていった二酸化炭素は、部屋から出て、植物に吸収され、木の実や葉を構成します。岩石の一部になるものもあるかもしれません。海の中へ流れていき、海草やプランクトンの一部になって魚に取り込まれ、また私たちの食べ物として戻ってくることもあるでしょう。
 食物の分子はそのまま私たちの分子になる。それゆえに、もし食物の中に、私たち生物の構成分子以外のものが含まれていれば、それがどんなに安全で無害なものとされていようとも、余分な分子、人工的な分子は私たちの体の動的平衡に負荷をかけてしまいます。それらを分解し、排除するために余分なエネルギーが必要となり、平衡状態の乱れを引き起こすからです。ここに、できるだけ中身の見える、プロセスの見える食を選ぶべき生物学的根拠があるのです。
 食物とはすべて他の生物の身体の一部であり、食物を通して私たちは環境と直接つながり、交換しあっています。だから自分の健康を考えるということは、環境のことを考えるということであり、環境のことを考えるということは、自分の生命を考えるということでもあるわけです。

2009年7月11日土曜日

【本】カウンターから日本が見える

伊藤洋一著

上質な料理を食べる場所としてのカウンター席。日本料理には定着しているが、世界のどこにもないスタイル。
カウンター割烹の源流は大正13年、塩見安三が大阪市西区新町に出した「浜作」。格式と権威のお座敷料理へのアンチテーゼとして登場した浜作は、各界の著名人が通う人気店となった。経済人らの後押しを受けて昭和3年銀座に進出。食材流通網や交通の発展とともにカウンター文化も全国に広まった。

日本で生まれた5つの理由
1.水が豊かで海と山の食材が多く、世界の先進国の中では最も早く調理が「食材保存」の制約から脱した。
2.海外諸国が持っているような階級制度や階級意識がなく、誰と誰が一緒になっても嫌がらないし、実際に特に問題も発生しない。
3.食べ物や調理方法に関する宗教的制約がなく、客も料理人も自由に発想し、調理を行える。
4.職人を尊ぶ日本の伝統から、板前が誰の前に出てもそれを当然であると受容する社会的枠組み、意識があり、腕のよい板前は「粋な存在」と尊敬される。
5.非常に安全な社会であって、そこに包丁があっても、それをその場で悪事に使おうという人物がほとんどいない。

以上の条件を満たす国は日本以外に見当たらない。
料理カウンターは日本の文化である。

2009年7月10日金曜日

<環境省>新次官に小林光氏

 斉藤鉄夫環境相は10日、西尾哲茂事務次官(59)が退任し、後任に小林光総合環境政策局長を起用するなどの人事を発表した。14日付で発令する。

 【環境省事務次官】
小林 光氏(こばやし・ひかる)73年慶応大経卒。地球環境局長、官房長、総合環境政策局長。東京都出身。59歳。

環境省(14日)総合環境政策局長(水・大気環境局長)白石順一▽水・大気環境局長(英王立国際問題研究所)鷺坂長美▽自然環境局長(官房審議官)鈴木正規▽官房審議官(秘書課長)三好信俊▽同(自然環境計画課長)渡辺綱男

 退職(自然環境局長)黒田大三郎、(官房審議官)柏木順二

-----毎日新聞

2009年7月7日火曜日

2009年7月5日日曜日

【本】エピソードで読む松下幸之助

PHP総合研究所編著

 ある日、幸之助は京都洛西にある鮎料理で有名な料亭を訪ね、部屋に入ってすぐ同行の青年にこう言った。
「きみ、このあたりの土地は全部わしのもんやで」
「ほんとうですか。へえー」
 青年は”天下の松下幸之助さんだ。このくらいの土地は手に入れているのかもしれない”と思った。その途端、
「きみ、そう考えてみ、面白いやろう」
 にっこりとほほえんで幸之助は続けた。
「このへんの土地も、この料亭も自分のもの。しかし、わしは電器屋やから鮎料理屋をやっている時間がない。だから、この料理屋さんに頼んでやってもらってる。そしてな、こうして鮎を食べに来るやろ。食べてお金を払うけど、それは鮎を食べさせてもらった代金ではない。鮎はもともとわしにタダで出してくれる。けどな、そのためにここの人たちが一所懸命にやってくれたから、何かしらのお礼を払うんや。そう思えば、きみ、このお店の人たちへの感謝の気持ちもより湧いてくるし、何よりも心豊かになるやろう」

2009年7月4日土曜日

【本】一勝九敗

柳井正著
会社とは本来、つねに実体がなく、非常に流動的で、永続しない可能性の強いものなのだ。そもそも、最初にビジネスチャンスがあって、そこにヒトやモノ、カネという要素が集まってきて、会社組織という見えない形式を利用して経済活動が行われる。しかし、経済環境は変動する。当然のことながら、金儲けやビジネスチャンスが無くなることがある。そうすれば、会社はそこで消滅するか、別の携帯や方策を求めて変身していかざるを得ない。会社とは一種のプロジェクト、期限のあるもの、と考えるべきではないだろうか。収益をあげられない会社は解散すべき、ともいえよう。

2009年7月3日金曜日

2009年7月1日水曜日

【本】負ける建築

隈研吾 著  2004年
<あとがきより>
 世界の膨張をマネージするために建築が生み出され、視覚が命ずるままに建築は高く、高くのびていった。同様に膨張によって不安定化した経済をマネージするためにケインズ経済学が登場し、政治においては世界の大きさに対する最も公平で合理的な方策としてデモクラシーが登場した。しかし大きさを解決するために編み出されたそれらすべての方策が、予想を上回って膨張する現実世界の圧倒的大きさの前で、かつての有効性を喪失し、挙動不安定に陥っている。本書を取り巻く状況をそのように要約することができる。
 挙動不安定は建築の全領域を覆っている。20世紀の公共投資と持ち家政策はケインズ経済学と20世紀型デモクラシーと連動しながら、世界の大きさをマネージする有効な施策として機能していた。しかし世界の大きさはすでにそれらの道具の限界を超えてしまったのである。それらはすべて個別に失効したのではなく、大きさという難題をマネージするために開発された近代的システムは、共通の単一の理由によって失効したように僕には感じられた。
 その理由とは、それらすべてのシステムが建築的なシステムだったことである。建築的なシステムとは過度に視覚依存的であり、物質依存的であり、その結果、求心的であり、構造的であり、階層的(ヒエラルキー)であり、内外の境界が明確で外部から切断された閉鎖的システムである。本書でしばしば登場するエンクロージャーという概念はこの明確すぎる境界の別称であり、近代の都市計画の基本理念であるゾーニングという手法もエンクロージャーの言い換えである。
 大きさを建築的なシステムでマネージしようとした時代。近代をそう定義したいという欲求に駆られる。では、そのような建築的システムにかわるシステムは何だろうか。非物質的、非求心的、非階層的システム。たとえばインターネットに代表されるネットワーク・システムはオルタナティブ・システムの代表であろう。
 しかし建築は古く、ネットワークは新しいという退屈な結論もまた、僕ののぞむ所ではない。新しくデモクラティックなシステムと考えられているネットワークが、いかに新たなエンクロージャーを生成しやすく、また建築的システム以上に外部に対して排他的に機能する可能性があるかについて、僕らはすでに多くを経験している。むしろ、様々な非建築的なシステムが、当の建築自体のあり方を変える可能性の方が、はるかに僕を興奮させる。求心的でも構造的でもなく、境界も曖昧でエンクロージャーを生成しないやわらかな建築が、ありえるかもしれないのである。
 そのような建築がもし実現し、人々の前に実際の物質として姿を見せたならば、何がおきるだろうか。それは今日の了解不可能なほどに膨張した世界の大きさをマネージするための具体的な道具のヒントとして、政治、経済、社会、家族のあり方に対しても影響力を与えるのではないか。物質の具体性には、それぐらいの力がある。だからこそ、建築的システムはかつてあれほどの影響力を世界に示しえたのである。物質を馬鹿にしてはいけない。
 物質をたよりに、大きさという困難に立ち向かう途を、まだ放棄したくない。なぜなら我々の身体が物質で構成され、この世界が物質で構成されているからである。その時、なにかを託される物質が建築と呼ばれるか塀と呼ばれるか、あるいは庭と呼ばれるかは大きな問題ではない。名前は問題ではない。必要なのは物質に対する愛情の持続である。