隈研吾 著 2004年
<あとがきより>
世界の膨張をマネージするために建築が生み出され、視覚が命ずるままに建築は高く、高くのびていった。同様に膨張によって不安定化した経済をマネージするためにケインズ経済学が登場し、政治においては世界の大きさに対する最も公平で合理的な方策としてデモクラシーが登場した。しかし大きさを解決するために編み出されたそれらすべての方策が、予想を上回って膨張する現実世界の圧倒的大きさの前で、かつての有効性を喪失し、挙動不安定に陥っている。本書を取り巻く状況をそのように要約することができる。
挙動不安定は建築の全領域を覆っている。20世紀の公共投資と持ち家政策はケインズ経済学と20世紀型デモクラシーと連動しながら、世界の大きさをマネージする有効な施策として機能していた。しかし世界の大きさはすでにそれらの道具の限界を超えてしまったのである。それらはすべて個別に失効したのではなく、大きさという難題をマネージするために開発された近代的システムは、共通の単一の理由によって失効したように僕には感じられた。
その理由とは、それらすべてのシステムが建築的なシステムだったことである。建築的なシステムとは過度に視覚依存的であり、物質依存的であり、その結果、求心的であり、構造的であり、階層的(ヒエラルキー)であり、内外の境界が明確で外部から切断された閉鎖的システムである。本書でしばしば登場するエンクロージャーという概念はこの明確すぎる境界の別称であり、近代の都市計画の基本理念であるゾーニングという手法もエンクロージャーの言い換えである。
大きさを建築的なシステムでマネージしようとした時代。近代をそう定義したいという欲求に駆られる。では、そのような建築的システムにかわるシステムは何だろうか。非物質的、非求心的、非階層的システム。たとえばインターネットに代表されるネットワーク・システムはオルタナティブ・システムの代表であろう。
しかし建築は古く、ネットワークは新しいという退屈な結論もまた、僕ののぞむ所ではない。新しくデモクラティックなシステムと考えられているネットワークが、いかに新たなエンクロージャーを生成しやすく、また建築的システム以上に外部に対して排他的に機能する可能性があるかについて、僕らはすでに多くを経験している。むしろ、様々な非建築的なシステムが、当の建築自体のあり方を変える可能性の方が、はるかに僕を興奮させる。求心的でも構造的でもなく、境界も曖昧でエンクロージャーを生成しないやわらかな建築が、ありえるかもしれないのである。
そのような建築がもし実現し、人々の前に実際の物質として姿を見せたならば、何がおきるだろうか。それは今日の了解不可能なほどに膨張した世界の大きさをマネージするための具体的な道具のヒントとして、政治、経済、社会、家族のあり方に対しても影響力を与えるのではないか。物質の具体性には、それぐらいの力がある。だからこそ、建築的システムはかつてあれほどの影響力を世界に示しえたのである。物質を馬鹿にしてはいけない。
物質をたよりに、大きさという困難に立ち向かう途を、まだ放棄したくない。なぜなら我々の身体が物質で構成され、この世界が物質で構成されているからである。その時、なにかを託される物質が建築と呼ばれるか塀と呼ばれるか、あるいは庭と呼ばれるかは大きな問題ではない。名前は問題ではない。必要なのは物質に対する愛情の持続である。