隈研吾著
20世紀には存在と表象が分裂し、表象をめぐるテクノロジーが肥大した結果、存在(生産)は極端に軽視された。20世紀は広告代理店の世紀であったと要約した人がいるが、表象をめぐるテクノロジーを競い合う時代の主役こそ、他ならぬ広告代理店であった。表象の操作を繰り返せば、広告だけは無限に作り出すことができ、それなりの感動も驚きも作り続けることはできる。しかし、それは人間の本当の豊かさとは関係ない。
広告代理店にとっての豊かさではなく、人間にとっての豊かさを探りたければ、建築をどう生産するかに対して、われわれは再び着目しなければならない。その大地を、その場所を材料として、その場所に適した方法に基づいて建築は生産されなければならない。生産は、場所と表象とを縦に貫く。あたりまえの話だが、場所とは単なる自然景観ではない。場所とは様々な素材であり、素材を中心にして展開される生活そのものである。生産という行為を通じて、素材と生活と表象とが、一つに串刺しにされるのである。生産とは、そのような垂直性を有する。その結果として、自然な建築が生まれる。場所に根をはった、自然な建築ができあがる。かつてフランク・ロイド・ライトはラジカルな建築とは、実は自然に根をはった建築なのだと言い放った。ラジカルと根っこという言葉が同じ語源をもつことを忘れてはならないと彼は語った。ウィスコンシンの田舎育ちという自分の根っこが、自分のラジカリズムの原点であると宣言したのである。
その意味で、日本の大工は驚くほどラジカルである。しばしば、家を建てるならその場所でとれた木材を使うのが一番良いと語り伝えられてきた。機能的にも、見かけも一番しっくりくると伝えた。それを一種の職人の芸談として、神秘化してはいけない。場所に根の生えた生産行為こそが、存在と表象とをひとつにつなぎ直すということを、彼らは直感的に把握していたのである。その方法の現代における可能性を、具体的な場所を通じて、ひとつひとつ探っていくのが、この本の主題である。
・水/ガラス(1995) タウトが日本に見た「関係性」
・石の美術館(2000) 芦野石の職人・「とりあえず」システムの回避
・ちょっ蔵広場(2006) ライトの大谷石・「不純」な構造
・那珂川町馬頭広重美術館(2000) 広重の雨・燃えない木
・グレート(バンブー)ウォール(2002) 現場の建築家
・安養寺木造阿弥陀如来坐像収蔵施設(2002) 日干し煉瓦・制約への挑戦
・亀老山展望台(1994) 人工と自然の境界線
・高柳町,陽の楽家(2000) 和紙職人・伝承技術