
槙家と谷口家の関わりに驚く。
慶應義塾大学アート・センター
槇智雄と谷口吉郎――慶應義塾幼稚舎校舎が生んだ建築の系譜
理想の教育環境を求めて
1930年代、慶應義塾幼稚舎は三田から現在の渋谷区恵比寿二丁目(当時は広尾ヶ原・天現寺周辺と呼ばれた地域)への移転計画を進めていた。
この計画を主導した人物の一人が、政治学者であり慶應義塾の理事を務めていた槇智雄である。智雄は、新しい時代を担う子どもたちのために、従来の学校建築とは異なる理想的な教育環境を実現したいと考えていた。
そこで白羽の矢が立ったのが、当時まだ若手建築家だった谷口吉郎である。
設計依頼当時の谷口吉郎は、東京工業大学で教鞭を執りながら建築家として活動していたが、後年ほどの名声をまだ得ていなかった。
しかし槇智雄は、谷口の建築思想や教育空間への関心に大きな可能性を見いだし、幼稚舎新校舎という重要なプロジェクトを託した。
谷口は海外の先進的な教育施設も研究しながら設計を進め、1937年に新校舎を完成させる。
平屋を中心とした開放的な教室群、子どもの身体寸法に配慮した家具計画、そして象徴的な講堂「自尊館」を備えたこの校舎は、日本のモダニズム学校建築を代表する作品の一つとして高く評価されている。
この校舎が完成した時代、幼稚舎で学んでいた児童の一人が、後に世界的建築家となる槇文彦であった。
槇文彦は槇智雄の甥にあたり、谷口吉郎が設計した教育環境の中で少年時代を過ごした。幼少期から質の高い建築空間に接した経験は、その後の建築観の形成に少なからず影響を与えたと考えられている。
後年、槇文彦は東京大学建築学科へ進学し、同大学で教員を務めていた谷口吉郎からも学ぶことになる。
一方、谷口吉郎の息子である谷口吉生もまた、幼稚舎にゆかりを持つ建築家となった。
吉生は父・吉郎の建築思想を受け継ぎながら独自の道を歩み、国内外の美術館建築などで高い評価を得る。槇文彦とも同時代を代表する建築家として交流を重ね、日本建築界を牽引する存在となった。
こうして慶應義塾幼稚舎は、
・槇智雄による構想と決断
・谷口吉郎による校舎設計
・槇文彦の成長の場
・谷口吉生へと続く建築文化
を結び付ける重要な舞台となったのである。
この物語を整理すると、次のような関係性が見えてくる。
槇智雄
↓
谷口吉郎に幼稚舎新校舎を依頼
↓
1937年 幼稚舎校舎完成
↓
槇文彦がその空間で学ぶ
↓
谷口吉郎から大学で建築を学ぶ
↓
槇文彦と谷口吉生が同時代の建築家として活躍
↓
現在の幼稚舎キャンパスにおいて、それぞれの建築が共存
この流れを見ると、槇智雄の判断によって実現した一つの教育施設が、その後の日本建築界を代表する複数の建築家たちを結び付ける接点となったことがわかる。
慶應義塾幼稚舎の歴史は、単なる学校建築の歴史ではない。そこには、教育、建築、そして人と人とのつながりが織り成す、近代日本建築史の興味深い系譜が刻まれている。
by Gemini & ChatGPT
